邦画との出会い・昭和のメモワール。
ホッとした時間が有ると思い出してしまいます。ずーと昔の出来事。
歳を取った証拠でしょうか。
「やっぱりそうよ。歳なのよね。」と姉に言われます。そして返答。
「お互いにね。」
時々、昼食やお茶を一緒にする姉との、いつもの会話です。
私は姉を生意気にyouと呼び、姉は私を※※ちゃんと呼び、
お互い生まれた時からの顔なじみ。
姉は旦那さんの転勤地、イギリスはロンドンの郊外に転居してから数年して帰国後
「私ねー、3時にはアフタヌーンティーとバニラクリームの
たっぷり乗ってるスコーンを食べないと落ち着かなくて。」
と、完全にあちら、つまりは英国に染まってしまった言動で
「まあ、仕方がないな」とあきらめていたのですが
東京の郊外に落ち着いて、しばらくしたら
「私ねー、3時にはほうじ茶に羊羹とザラメのお煎餅が食べたくなるのよねー。」
と極端に変化し、私と逢う時のお土産も、銀座のコージーコーナーのケーキから
とらやの羊羹に変わり、周りの環境に順応するカメレオンの様な面白い人なのです。
ここは静かで二人ともお気に入り
そしてお互いの近況を語り合ってから、いつもの通りの
「あの頃はねえー」から始まる昭和の思い出話をしながら、
お互いに、時の流れの速さを感じるのです。
姉は私の様に映画マニアではなく、どちらかと言うと読書の方が好きな、がり勉タイプ。
英翻訳を片手間にしながら、ノホホンと暮らすお気楽な人。
で、「※※ちゃんも、引越ししたらここは賃貸にすれば?
学生なんかは、古くても借りてくれるわよ。」と提案され、
それも良いかなと思案に暮れたり、
いろいろ助言をしてくれる、まあまあ「良き友」でもある訳です。
そんな姉と子供時代には黄色いスクールバスに乗って
エスコーラ・デ・ネルソン(ネルソンズスクール今は廃校)と云うユニークな学校へ
一緒に通学し、ここから私の映画と共に歩んだ「昭和の思い出」が始まるのです。
邦画との出会いは、この日本の裏側コパカバーナの映画館。
リオ在住の領事館や企業の家族が招待され
小さな「日本映画の祭り」 が開催されたのです。
私も姉と両親と共に夜会服に袖を通し、いそいそと出掛けました。
「ボニチーニャ(ボニータ)メニーナ、ジャポネ」つまり「可愛い日本の子」とか
「日本のかわい子ちゃん」とでも言うのでしょうか。
ブラジルの人達は、とても日本には友好的で、
そう呼ばれると、姉と「フフ」と顔を見合わせたものでした。
ですから北米に渡った時の緊張感とはまるで違う、親近感を感じたのです。
あちらの人々はパーティー大好き。
リオ在住のマダム達。
「日本の人は時間をキッチリ守る。約束の時間は1分とも狂わない。
1890年末頃からの移民制度で多くの貧しい日本人が渡って来た。
大変な苦労をして荒れ地を耕し(信頼出来る日本人)の土台を
築き上げてくれたからだ。」
とブラジル人の先生に教わりました。
しかし、逆にブラジルの方は10分や20分の電車やバスの遅れなど
全然気にしないお国柄と云うこともあり、
几帳面な私達を過大評価した様な気もします。
教師の中にはミス・リタと云うイギリスからの派遣教師がいて
アジアには余り好意的では無かったですし
当時は私達をファニースキン(変な色の肌)と言う米国人も居ました。
クラスにはユダヤ系やドイツから来た子も居ましたので、戦争の後遺症は、
この南国でも存在していた事は確かです。
エスコーラ(学校)のサッカー少年
この子達も今はいいおじさんでしょう。
若き日の陛下。リオに立ち寄られて下さいました。
後、サンパウロ市の日系の方々を御訪問されました。
さて、私も姉もこの「祭り」で始めての邦画、強烈な印象を残す
その他には「雨月物語」「姿三四郎」と3作品が上映されたと記憶しております。
「姿三四郎」を演じた加山雄三は、その後若大将シリーズでブレイクし
「リオの若大将」の撮影で再度ブラジルに滞在しておりました。
田中絹代の怪演には強い印象を受け、
あれから何年と云う年月が経ったのでしょう。
帰国後は、リオでは絶対手に入らない鑑賞不可能だった
溝口、成瀬、小津、増村各監督作品を続けざまに鑑賞し
田中絹代の(ベルリン銀熊賞)や
各賞に値する立派な演技者だと納得しました。
そして、このカラー作品の逸品
戦後数年経ったが、まだ何か物足りなくて不満な中、若者達が皆、夢や希望を持って
生き生きとしている姿が、とても美しい映像
この画面に見る利休の名言(わびさび)つまりは、(質素第一の思想)に値する
無駄な動きの無い、まるで絵画の様な完璧な映像に魅了されました。
初々しい岩下志麻様
海外でも多くの国の言葉に訳されて
日本の芸術作品として認められております。
又、静かで穏やかに進行する成瀬巳喜男監督作品からは
特に知りたかった50年代からの戦後間もない昭和の映像で
混乱期から高度経済成長期に至るまでの、一番興味のある昭和の流れを、
多く読み取る事が出来たのです。
「浮雲」
「山の音」
成瀬監督作品も各国で訳され、今は国外でも
観る事が出来る様になりました。
大の お気に入りとなった、この成瀬作品では
戦後の混乱期が背景の「浮雲」での女性の生き方や
「放浪記」での林芙美子の自伝的映画、強引な作家人生を演じた
高峰秀子には、芯のある七変化の出来る人だと感心ました。
近年、日本の俳優人も欧州や欧米の優れた役者達に、
引けを取らない名優が多くなったのは、邦画を観る者の誇りでも有り
頼もしいかぎりです。
「SAYURI」のケン・ワタナベ
米国版芸子物語。
(色彩は印象的だが、芸術性は感じられない。)
姉曰く、「千年経っても、欧米その他の国々に、利休の名言を理解出来る人は
現れないでしょう。」との感想。なるほど
世界中の映画人は米・西海岸を目指し、アメリカンドリームを夢見て、
ハリウッド進出に力を入れておりますが
ギラギラした米国映画の真似では無く
溝口、成瀬、小津、黒澤(敬省略)の作品の様な
我が国でしか表現の出来ない(わびさび)の有る邦画の完成を
影ながら期待しているのです。
ではまたね。